『崖の上のポニョ』
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かなり今更感が漂いますが、見てきました。
ちょっと短めなんですが、娘(五歳)にとってはちょうどいい長さだったらしく、じぃっとスクリーンに釘付け。
後半かなり超展開(前半がまあまあリアル?というか、母親が介護職に就いてたり、割と現実的な設定で、「波に顔がついてる」とかは子供にしか見えないものを表現してるのだと思っていたら、最終的には大人もみんな「なんでもあり」を受け入れているという。
すごぉおおく簡単に私が要約すると
「人間に絶望して海の住人になった研究者と、海の女神との間にできた娘が半魚人。
外の世界に憧れて海底から飛び出し、地上の崖の上の家で自分と同じ年頃(?)の少年とピュアな恋に落ちるが、それをきっかけに大洪水が起こって世界が変わってしまう。
その世界は生き物にとっては「原始の海」に近くて、非常に平和である。人間たちも幸せそう。しかしそれはまだ「早すぎた」とかそういうものらしい。
少年は「半魚人でも魚でも人間であっても変わらず愛する」と海の女神に迷い無く答えることで、娘の半魚人は人間になり、世界のほころび?みたいなものは閉じられた。」
ハッピーエンドっぽいんですが、
「世界が水没したことで、むしろ人々は幸せそうである」
「一回は海に沈んだ街」が復興する様子とかは一切描かれずにほんと唐突に終わる」
…ここら辺が大人が見ると「…あれ?」っていう居心地の悪さを感じるんです。
「ポニョが人間になって幸せに暮らしている様子」も全然ない。
(「魔女の宅急便」みたいにエンドロールで見せるような手法もない)
いったい全体世界は「救われた」のか。世界はほころびたままでも幸せそうだったじゃないか。
っていうか「補完された世界」だろうあれは。
ポニョと宗介は水中のまさに「満たされた世界」から出て行くことになるんだろうけど、ポニョの両親どころか宗介の両親も既にあの水中楽園になじんでいたわけで…
「あら、わたし達はもともと泡から生まれたのよ。」
「泡」になって海に溶け込まないことを選択した幼い二人。
誰も居ない荒涼とした砂浜で、残される二人。
…エヴァンゲリオン?
泡だかなんだかから出現した私の娘・輝タンもついに来年小学生になります。
ポニョのごとく大量の妹とかは作る機会がありませんでしたが(魚の産卵とは違いますからね…)、まあまあ楽しげに五才児ライフを満喫しています。
「父親」という概念はやはり謎らしいけど(娘は父親の顔を覚えていないと思う)、宗介家の「普段お父さんは家にいない」という設定はどういう風に見えたのでしょうか。
でも父親がいようといまいと、母はどっかの時点で「娘とは違う世界」にシフトしていかなければならない。アナタが見ている世界のキラキラとかはもう、母にはあんまり、見えないんだ。
そう思った家族サービスの一こまでした。
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